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寒い中お疲れ様です。実行委員長の服部です。

本年3度目の和歌山でのサウンドデモ、そして2017年最後のサウンドデモです。

 2015年安保法制をきっかけにして、僕がこんな風にデモに参加するようになって2年がたちました。2015年当時、一人で東京に行ったりしながらデモに参加した頃を思えば、学生のエネルギーが着実に増えている今が、心強いです。こんな風に和歌山の中だけで、十分な数とはいえなくても、多くの学生が動き、デモを企画し、実行しているなんて、2年前には想像すらしていませんでした。

 そして必ず次、その次と参加する大学生は増え続けると思います。

 常にデモの参加者が増え続けないと、デモをする意味は薄れていきます。

 デモには参加者の数が絶対に必要です。運動主体の数の可視化は、市民の思いの可視化です。「僕はデモ以外の方法で」という人もいますが、デモでしか変えられない、訴えられないことがあるからデモをするのです。次もやるので、また次も一緒に歩きましょう。

 

 スピーチします。

 ハンセン病について話します。

 ハンセン病は感染力の極めて弱い伝染病で、感染してもその多くは発症しません。さらに、戦後は特効薬の登場により、おそれる病気ではなくなりました。しかし、この病気に対する偏見と差別は長く世界中に残っており、ここ日本においても、「ハンセン病は遺伝病である」「前世の行いが悪かったから病気になった」といって忌み嫌われてきました。

 それゆえに村社会では、ハンセン病の患者が出た家は村八分にあうなどして古くから差別の対象となってきました。そのため、ハンセン病にかかった人は家族に迷惑をかけられないと言って、家を出ることを余儀なくされ、多くハンセン病患者は浮浪し、神社などで物乞いをするしかありませんでした。

 明治期に入り、日本国家が出来た後も、それらの人を保護し、療養所を開いたのは宗教関係者が多く、そのほとんどが開国とともに日本に入ってきた外国人のキリスト教関係者でした。そのような人たちから批判を受けるようになると、ハンセン病患者が浮浪しているのは、近代国家として恥であるという理由から、国はようやくハンセン病患者に療養所を作りました。しかし、そのために多くの国家予算をつぎこんだという訳ではありません。療養所内のほとんどの仕事、養豚や農作業、薪拾い、洗濯、重症者の介護などの多くの仕事は、比較的症状の軽い患者が請け負わざるをえない状況だったのです。さらに、その労働の対価として払われたのは、園内でのみ使える通貨でした。療養所からの逃走を防ごうとしての策です。

 さらに、感染力の弱い伝染病とわかったあとでも、遺伝病のうわさは一方で生き残り、療養所内で結婚する際には、女性の胎内に赤ちゃんが居る場合、強制で堕胎手術を受けなければならず、男性は精管を切る断種の手術をうけたあとでないと結婚は認められていませんでした。

 戦後になると特効薬が日本でも使えるようになったにも関わらず、戦後さらにひどい強制隔離政策が敷かれることになります。それまでは警察官による患者を探して隔離するというルートでの収容出会ったのに対して、民間人にも患者をみつければ報告する義務を課し、警察だけでは見つけられなかった患者を、近所の人の手により摘発させ収容所に送るという徹底した隔離政策が敷かれたのです。ハンセン病患者には戦後憲法の保障する個人の尊厳も、基本的人権も認められなかったのです。

 ハンセン病特有の見た目への嫌悪や、戦前のイメージから、ハンセン病患者が療養所の外で暮らすことは「公共の福祉に反する」とされた。このように、戦後の日本の民主主義の中においてでさえ、民主主義の名の下に差別が正当化された事例があります。民主主義とはなんでしょうか。

 人々が怠け、考えず、新しい知識を獲得していかないと、このような人権侵害を引き起こすことに繋がりうるのです。無関心を貫くこともまた、無知であることも、民主主義否定を手助けしていることになります。

 反対に、学び、考え、行動することで民主主義は少しずつよくなっていくのです。民主主義には完成も維持もない、ただひたすらいいものになるための運動が続けられなくてはならないのが民主主義です。

 100年近く続いたハンセン病患者を隔離する法律は今から約20年前に廃止になりました。それはハンセン病の当事者自身による法律を廃止させようという闘争の結果です。1950年代から始まった闘争の中で、ハンガーストライキ、デモ行進、政治家との交渉などを駆使して到達した大きな成果です。そして今や、多くの社会一般人に隔離政策は誤りであったことを認識させ、ハンセン病の当事者の方々の人権はゆっくり回復している最中です。このように、政策や社会の誤りをただす運動を本人達がしているとき、わたしたち市民はどういう態度をとったほうがいいのか。別世界のことだと意識にもかけない、傍観を決め込む、これでいいのでしょうか。僕たちの暮らす社会の中に、決定的な誤りがあり、差別がまかり通っている。僕たちが作っている社会においてそんな不合理が存在する。それを放っておくという態度は、立派な加害者としてみなされるのでは無いでしょうか。

 命が軽んじられる社会、人権の尊重がなされない社会、社外的弱者という言葉が存在してしまう社会。今の日本に目を向けると、障害者に生きる価値は無いといって19人の命が奪われた相模原事件、在日コリアンに対するヘイトスピーチ、沖縄や岩国など民意を無視して作られる米軍基地、福島から避難した子どもが転校先の学校でいじめにあっている、結婚したら慣れ親しんだ名字をどちらかが名乗れなくなる制度、同性愛者は法的に結婚できない、学費の高さゆえに進学をあきらめる高校生、挙げだしたらきりが無い人権侵害の数々。この人権侵害が平然とまかり通る社会の向かう先は、あなたや僕の人権が侵されていく未来です。

 ハンセン病の歴史をみると、隔離を正当化する法律を廃止に追い込み、自らに対する社会からの偏見や差別感情を正していった本人達の運動の歴史がある。政策や社会は変えられることを見せてくれる歴史がしっかりとあります。これは、「僕ら市民には、状況を変える力がある」という教訓です。その力は、誰にだってある。それが民主主義の社会です。

 だからこそ、今ある差別、人権侵害をひとつひとつ無くしていくために、僕らはその運動にコミットする必要があると思います。実態や事実を知ること、友人や家族と話すこと、署名活動、人権を侵害されている人達の不利益にならないような投票行動、政治家へのロビー活動、そして、デモもそれにあたります。

 誰かの権利や、個性や、命が軽んじられている社会、自分はそれを作っている一員であるという責任と向き合い、こんな世の中は嫌だとあがきましょう。

 1億総活躍なんて言われていますが、その前に、まずは向かわなくていけません。全ての人、あなたも、わたしも大切にされる社会へ。

 

2017年12月10日 和歌山大学大学院1回 服部涼平

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